先日、ある製造業の元社長からこんな話を伺いました。
数年前、業績が良かった年に思い切って従業員の給料を大きく上げたそうです。人材確保のため、社員のためにと決断した昇給でした。ところが決算が終わってから、顧問税理士に指摘されて青ざめたといいます。賃上げ税制の適用を申告書に書き忘れていたのです。
「せっかく給料を上げたのに、税額控除を丸ごと逃した」。そう肩を落としていました。
給与増加額の最大45%が消える
賃上げ税制は、前年より給与総額を増やした企業に対して、その増加額の一部を法人税額から直接控除できる制度です。中小企業であれば、上乗せ要件を満たすと控除率は最大45%に達します。
仮に給与総額が1000万円増えていれば、単純計算で最大450万円が税額から差し引かれる計算です。金額の大きさを考えると、これを取りこぼすインパクトは相当なものです。
この元社長のケースでは、賃上げ自体はしっかり実行していました。要件も満たしていたはずです。それでも控除を受けられなかったのは、申告のタイミングと手続きの問題でした。
「後から取り戻す」が効かない制度
多くの税額控除や特例には、期限を過ぎても更正の請求で取り戻せるものがあります。しかし賃上げ税制は違います。
当初の確定申告書に、給与等増加額や控除を受ける金額の計算に関する明細書を添付することが適用の要件です。この明細を出さずに申告してしまうと、原則として後から更正の請求で追加適用することはできません。
「決算が終わってから気づいた」「税理士に伝え忘れていた」というケースは実務上少なくありませんが、気づいた時にはもう遅い、というのがこの制度の怖いところです。売上や経費のように、後で修正申告すれば直せるものとは性質が異なります。
繰り越せる仕組みもできている
一方で、この制度には近年になって救済策も設けられています。その事業年度で法人税額が少なく、控除額を使い切れなかった場合、控除しきれなかった分を5年間繰り越せる仕組みです。
黒字が小さい年に賃上げをして控除枠が余ってしまっても、翌年以降に業績が回復すれば、その枠を使って控除を受けられます。せっかく賃上げを実行したなら、この繰越制度を使わない手はありません。
ただしこれも、当初申告で明細をきちんと出していることが前提です。土台となる申告を誤れば、繰越の権利そのものが発生しません。
賃上げを決めた時点で税理士に共有する
この制度でつまずく会社に共通しているのは、賃上げの意思決定と税務処理が別々に進んでしまっていることです。人事や経営判断として給料を上げることは決まっていても、それが税理士まで正確に伝わっていない。決算のタイミングで初めて話題に上る、というパターンです。
給与を増やす方針が固まった段階で、金額や対象者の情報を税理士に共有しておく。それだけで、申告書への明細添付を漏らすリスクはほぼなくなります。逆に言えば、決算直前になって慌てて確認するような進め方では、この手の取りこぼしが起きやすくなります。
賃上げは人件費という重いコストを伴う決断です。その決断に見合う控除を受け取れるかどうかは、決算書を作る段階ではなく、賃上げを決めたその瞬間の情報共有にかかっています。まだ今期の給与実績を税理士と共有していないなら、次の打ち合わせで一言添えておくのがおすすめです。
※本記事は一般的な情報提供を目的としています。具体的な税務判断は税理士にご相談ください。